いやな予感は最初からあった。
設定していたアラームが起動せず今朝は寝坊して、どやされることを覚悟で朝練へ急いだ。
その道中、革靴のつま先部分がべろんと剥がれ、カタギとは思えない目つきの黒猫と三度も遭遇して、朝だというのに霊柩車を一台見送り、つがいのカラスに危うく糞を引っかけられるところだった。
朝飯代わりに買おうとしたウィダーは直前で売り切れ、空腹のまま出た朝練では、案の定部長・副部長コンビから説教と嫌味と罰走をたっぷりと食らい。
挙句の果てに、ダブルスパートナーからは「日頃の行いが悪いからですよ」の一言でバッサリと斬られ。
教室へ戻るとブン太には「厄日じゃねえの?」と茶化され、ついでに「今日はおとなしくしとけ。あと厄払い行っとけ」と笑われた。朝から散々だっただけに、言い返すのも億劫で素直に頷いたんだ。
だから、いやな予感はあった。重なる時は重なるものだと知っているし、今日は何があっても驚かない、というくらいには覚悟を決めていた。
だけど。
「――ぁ……は……」
「…………」
「ね、先輩……? ちょっとそれっぽくなってきた?」
「…………はあ」
背後の奴に気づかれないよう小さく溜息を落とし、腰骨のあたりを這い回る手を見下ろす。俺より少しだけ小さなその手は、俺が無反応でいると、煽るように下降していく。
それっぽくなってきた? ――どこがだ。
悪ふざけの延長の、曰く《ごっこ遊び》開始から早五分。俺の疲労感は増すばかり。けれど背後の後輩の機嫌はだんだんに良くなっていく。この温度差、どうしたものか。
ことの始めは、ブン太が何気なく投下した話だった。
知り合いの女が痴漢に遭ったらしい――そんな内容だったと思う。
今となってみると、話半分で聞いていた俺と違い、赤也はやけに聞き入っていた。その女を知るわけでもないのに、やけに。
そうして放課後、珍しく部活はオフで、珍しく自分からうちに来たいと言い出して。珍しいと思いながらも、俺は頷いて。
その結果が、期待感も露わに笑顔で提案されたこの《ごっこ遊び》に付き合う羽目になった今だ。いつだってこいつのおねだりを跳ね除けることの出来ない自分が、一番たちが悪い。
窓に映る自分と向き合い、また溜息がこみ上げてくる。
勝手知ったるといった様子で俺の小道具入れを漁った赤也に渡されたのは、柳生に化ける時に使う優等生眼鏡。髪も黒のウィッグを被され、制服はスーツに変わり、見た目だけは立派なサラリーマンだ。なんのこだわりかは知りたくもないけれど、俺にリーマン役を、自分は制服そのままの学生役を。そしてそのまま、自分が痴漢役を――という微妙な設定を押し通された。ふつうは逆だと喉まで出かかったのは言うまでもない。
「……あ、先輩ちょっと勃ってきた?」
「……のう」
「先輩ってなんかいい匂いしますよねー。あとうなじきれい」
「……のう、赤也」
「噛んでいい? つか噛む」
止める間もなく、首の後ろに硬い歯が当たる。一度では離れず、浅く薄く何度も食まれて、無意識に背骨が震えた。
(何やっとるんじゃ、ほんに……)
股を這う手の動きが、徐々にあからさまになっていく。容を辿るだけだったのが、掴んでみたり、擦ってみたり。俺の気なんて知らずやりたい放題だ。
軟い刺激にむず痒さを覚えながら、窓についた右手を握った。左右に視線を走らせれば、テレビやソファ、ダイニングテーブルが見える。
俺の自室だと盛り上がりに欠ける――それだけの理由で、無人とはいえリビングでこんなことをしている現実を、改めて思い知った。ばからしさを極めていると思うのは俺だけなのか。
「のう。いつまで……」
やるんだ、と言いかけた時、スラックスの上からぎゅっと握られ息を詰めた。瞬間的に速くなった鼓動を誤魔化すため深呼吸をしていると、握りは甘くなり手が離れていく。
ほっとしたのも束の間、ジイ……とジッパーが降ろされる音。
半ば諦念の境地で目線を下げれば、案の定、開放したそこへ侵入していく手が見えた。……最悪だ。
「せんぱい、かわい」
どこがだ。
そう言ってやりたい。やりたいけれど、さっきよりずっと直接的になった感触がリアルすぎた。声や反応を抑えるのに全神経を注いだせいで言い返す機を失ってしまう。
布一枚を剥いだだけで、こんなに違うものなのか。
不器用に動く手が、まさぐるように先端を捏ねる。生理反応だと自分に言い聞かせてみても、見る間に硬さと熱を持っていくのは誤魔化しようがない。
下着ごと上下され、湿り気を帯びた先端を押し潰すように刺激され。
「……っ」
まずい、と意識した時、
「……せんぱい、気持ちい?」
少し掠れた半笑いの、けれど確かな興奮が滲む声が、左耳に流し込まれた。
「……っ、――」
背筋が、全身が粟立つ。
言い様のない悔しさを噛み潰した口端から、殺したはずの息が漏れた。熱を持ったそれが窓を白く濁す。レンズ越しに見えた曇りを、押し当てた右手で雑に拭った。
ささやかな抵抗を嗤うように、ボタンの隙間から指が侵入してきた。直に触れられた瞬間、喉がしなる。上擦った声は、寸でのところでなんとか押し込めた。
「すげ、ガチガチじゃん」
「っ、誰んせいじゃ思っ……」
「俺。……見て見て、俺の指ちょーぬるぬる」
「おま……後で覚えときんしゃい……、っ」
「先輩ここ弱いっすね? ここ」
指摘と同時に先端の小さな孔に爪を立てられ、膝が笑いそうになった。窓ガラス越しに睨んでやれば、してやったりと言いたげな笑みが返される。……この野郎。
白みそうになる意識を必死で捕まえながら、好き放題に動く手を掴んでやった。
一瞬の隙を見逃さず、そのまま思い切り引く。上がった短い悲鳴に構わずくるりと反転。赤也の体重がもろにかかった窓が小さく軋んだ。
「ったあ……何、まだ」
入れ替わった拍子に窓にぶつけたのか、後頭部を押さえながら不満げな呟きが落ちる。けれど、
「もう充分遊んだじゃろ。今度は俺ん番」
「へ」
形勢逆転。
ぽかんと口を開けた赤也を見つめたまま、眼鏡を上げ、含みを持たせにんまりと笑ってやった。
ウィッグに手をかけ、外したそれを床へ落とす。
ぱさりと乾いた音を立てた黒髪を、丸くなった猫目が追う。
軽く顎を掴み、逸れた視線を戻し。
「覚悟せえ言うたじゃろ」
「へっ? やっ、ちょっ、俺まだ……っ、てか待っ、こ、ここリビングだし!?」
仁王先輩、と紡ぎかけた煩い口を、口で塞ぐ。
逃げる舌を捕まえ、ネクタイの結び目を解いた。抵抗する両手は窓に縫い付け、シャツのボタンをわざとらしくゆっくりと外してやる。
繋がった口の中で、焦り半分な抗議の呻きが漏れた。
けれど、日頃冷たいと不満をぶつけられる手で肌をまさぐると、そんな呻きも露と消え。
「っ、は……、ちょ……、場所、やだ……! へ、や、部屋行きましょうって……!」
濡れた眼の中心に、清々しい笑みを浮かべた自分が映り込む。
「盛り上がりに欠けるんじゃろ?」
放った台詞に唖然とした赤也をまた笑い、肌蹴た首筋に噛み付いた。
肌色に埋まる視界の端に、揺れるカーテンと、橙色に染まった床が映った。
目を戻せば、白い肌に薄らと赤が差し始めている。
不規則に荒れる肩を舌で舐りながら、こみ上げる笑いを押し殺し、静かに目を閉じた。
弟が帰宅する寸前まで、意趣返しといこうか。
内心に呟いたそれは届くはずもないのに、まるで聞こえたように全身がビクッと震える。鎖骨を辿った唇を鳩尾まで下降させれば、文句や抗議の代わりに、甘く掠れた声が降ってきた。
夕陽が沈むまで、あと僅か。
煽ったのはお前だとは、せめて言わないでおいてやるか。
ツイッターのBLお題より。
どの辺が恥ずかしがっているのか、どの辺が痴漢?とツッコミながらも楽しんで書いてました。ノリって素晴らしいです。