夏の日、きみの手



「幸村」
「うん?」

店を出てすぐ低めの声に呼び止められた。増えた紙袋を持ち直し、三歩先で足を止めた真田を窺う。
無言のまま差し出された右手。何だと尋ねても真田の口は閉ざされたまま開かない。相変わらず言葉が足りないよ。

真夏の激しい陽射しが降り注ぐ歩道。その端で立ち止まる俺達を、通行人たちはするすると避け通過していく。まるで俺達なんて見えていないように。
陽射しも照り返しも強いけれど、真田には緑葉が眩しいケヤキの影がかかっていてその顔がよく見えた。 真っ直ぐに向けられる視線から意思を汲み取ろうと、俺もその眼を見返す。

蝉ががなる。命を振り絞るみたいに。
声はどんどん折り重なって、耳鳴りのようになっていく。

うなじに沿って汗が流れた。こめかみ辺りからもじわじわと染み出して、輪郭沿いに垂れていく。
正面に立つ真田の身体を覆うように陽炎のような熱気がゆらめいている。
俺と同じく真田の頬にも流れてくる汗が見えた。
陽を反射するコンクリに足元から炙られていく。

重唱のような蝉の声。 熱気。陽射し。葉の影と、店内から漏れる騒がしい音楽。

――頭がぼうっとしてくる。
ふらつきそうになって額を押さえた。そんな俺を嘲笑うように蝉たちの叫びは重唱から輪唱へ変化する。 その声は頭の内部を掻き回すようで、込み上げる吐き気に気が遠くなった。

(今年の夏は厳しいな…ああ、耳が痛い。頭も)

紙袋を下げたままの左腕で顔に影を作る。 こうすれば少しはマシだけれど、音だけはどうにもならない。命の音たちは容赦なく俺の体力や精神力を削りにかかる。

溜息が零れそうになった時、差し出されたままだった真田の右手がふっと動いた。
自然、目で追う。すぐ眼前に迫ったその手は、顔に触れると思いきや直前に逸れ、額につけた腕を取った。 強くもない力で剥がされる。日よけが消え遮っていた陽光が突き刺さり、眩しすぎて思わず双眸を細めた。

左腕が、手首が熱い。きっとこの熱は、真田の。

「なんだい?」
「……」

また無言。
苦く笑う俺に構わず、取られた腕から紙袋ふたつが抜き取られる。そしてそのままくるりと踵を返した。

「行くぞ」
「……って、真田? ありがたいけれど、自分の荷物くらい自分で……」
「顔が白い」
「うん? まあ焼けにくい体質だからね」
「そうではない。白いと言っている」
「ええと……」

成立しているようでしていない会話に苦笑が深まる。その間にも荷物を攫った本人はすたすたと歩き進め、徐々に距離が開いてしまう。
言い分を理解しきれないまま、とりあえずその背中を追った。 数歩分の距離を詰め、車道側を行く真田と肩を並べる。 歩きながら横顔を覗き込むと、手ぶらに舞い戻った俺を一瞥し、それからまたその視線は前方へと固定された。

「ねえ。これじゃあ荷物持ちに君を呼んだみたいじゃないか」
「……」
「女の子じゃあるまいし……ほら、真田。自分で持つから」
「無理をするなと言っているのがわからんのか」
「え? いつそんなこと……ってああ、白いって」

そういうこと、と思わず笑ってしまった。
顔色が悪いと言いたかったらしい。そうだろう? と指摘すれば、すうっと目を逸らされた。図星だね。

店に入る前の身軽さに戻った俺と、俺の代わりに左手を塞いだ真田。
炎天下の中、街路樹の脇を気持ちゆったりと歩きながら、傍にある自由な右手を見下ろした。
些細な気遣いが申し訳ない。だけど、同じくらい優しい気持ちになる。 気が引けるのは確かなのに嬉しいだなんて……俺も矛盾しているよな。

いつの間にか頭痛や吐き気は消えていた。 代わりに拡がるのはあたたかなもの。激しさを増す熱気とは別の何か。

緩みそうになる頬をそのままに前を向いた。
数メートル先の景色が陽炎のせいで定まらず揺れている。
夏だねと呟くと、ああ、と短い返事が返ってきた。
他愛ない会話の最中にも首や頬へ次から次に汗が垂れる。いちいち拭うのも億劫になるほどで、取り出そうとしたハンカチには手を伸ばさなかった。

「ねえ真田。こんなに暑いのに、今年も耐える気かい?」
「何の話だ」
「エアコンだよ。毎年、部屋に取り付ける付けないでお兄さんと揉めているだろう?」
「あれは揉め事のうちに入るのか? 俺はただ、自分には必要ないと言っているだけだ」
「ふふ。そう……真田らしいな」

小さく笑うと、視線を感じた。確かめる前に逸れたけれど。

ふいに会話が途切れた。
どこまでも続いているような錯覚に陥りそうになる歩道は、相変わらず他人で溢れ返っている。
並ぶ店々のショーウィンドウには夏仕様のマネキンが飾られ、冷房の効いた店内から俺達歩行者をじっと見つめている。

言葉を探すこともなく、お互い無言のまま歩き続けた。 ふと隣へ目をやれば、首を伝った汗が鎖骨の窪みに溜まるところだった。
俺より浮き出た喉仏が熱さに喘ぐように上下する。目線を下げれば、左手に食い込む細い持ち手がふた組。


「ねえ真田」
「なんだ」

俺は真田の左手を、真田は前だけを見ていて。

「右手、淋しいだろう?」

視線が重ならないまま伸ばした左手は暫くそのままだった。
数メートルも行くと交差点にぶつかり、信号待ちの人達の最後列で足を止める。
真田とふたり、信号機の赤を無言のまま見つめた。 まだ、俺の左手には風が触れるのみ。
真田のことだから、意味が伝わっていないのかもしれない。
残念、と内心に呟き、気づかれないよう少し笑った。

やがて赤信号は青へと変わり、横断可能を報せる軽快な音楽が流れだした。信号待ちの人達が一斉に渡り始め、周囲に停滞していた熱気が四方へ拡散する。 漸く前の前の人が、三秒後にすぐ前の人が動き、俺も右足を踏み出した。

揉みくちゃレベルの混雑の中でやっと左手になにかが触れたと気づいた時にはもう信号は点滅し始めていたし渡りきるまでいくらも残っていなかったけれど。

白と黒が終わってしまう境界線まであと数歩。
境界線を越えたら離れてしまうだろう熱を俺はしっかりと握り返し、驚いたように硬直したそれを隠しもせず笑った。



日頃お世話になりっぱなしの乙樹様へ、お誕生日祝いとして書かせていただいた初書き幸さ…幸真?() 残念感たっぷりですが気持ちだけは籠めました…!乙樹様、お誕生日おめでとうございます!